9月12日、Sankhuの夜明けは6時頃、今朝がこれまでと違うのは、Narayan Mandirの奏楽がかすかに聞こえることか。昨日の用水路歩きと夜の熱狂に疲れ、着たままベッドにダイブしたO先生も、7時頃には動き出された。サンディー婦人のミルクティーで脳を覚まし、予定どおり内業の一日が始まった。スリエさんとサンディー婦人がSankhuの朝軽食を運んできてくれる。
スリエさんを捕まえ、昨日作成した行動計画をネパール語で読んでもらう。合わせて「皆様と私たち」と題した資料を示すが、複数言語の資料は使いづらく、O先生が口頭で説明することとなる。スリエさんは、今回の我々の滞在理由を理解し、自分の考えを書くと言う。
スリエさんのレポートは、三回に分かれWhatsappのグループ送信があった。androidと違いiPoneは、Whatsappの直接翻訳ができない。文をコピー、自分宛のG-mailに貼り付け、送信、ブラウザからG-mailを読めば、自動翻訳が使える。O先生は、Nexagの中間報告資料を修正、私といえば、昨夜の写真、動画ファイルを整理するものの、Mac Air M1のUsb-Cに繋いだUsb-B変換器とメモリーReaderの相性なのか、動画ファイルがMacに落とせない。O先生が持ち込んだSankhu用のWin PCを借りるものの、動画ファイルの一つはサベージできなかった。
いつも食事をサンディー婦人に世話してもらうのも悪いので、散歩を兼ね、外で昼食を取ろうとO先生に提案すると、「何故?」と聞かれるよと返答される。気分転換の散歩だといいますよと言って、サンディー婦人に翻訳文を見て貰うと、近くにいたスサが、母親の顔を見て「Why?」と来た。そして、既に準備ができているとも。これには抗うことはできない。分かりました。散歩は、食べた後にしますと言って退散した。
昼食は、今日は家に居るスリエさんと一緒となる。スリエさんの右手の親指の使い方を教わり、ネパール式で食事を初めてした。O先生は、田舎でそれをすると喜んでもらえると言う。
O先生のNexag中間報告の修正に一段落した後、雨量計のデーターが送信されないことから、DDL見原さんの指示により、転倒枡作動時のロガーランプの点滅を確認するため、観測施設へ向かう。準備しながら、窓の外を覗くと、スリエさんとサンディー婦人が仲睦まじくキッチンガーデンの手入れをしている。このお二人は本当に仲が良い。雨量計に水を注ぐと、転倒枡の作動音と排水がある。ポンチョを覆いとしてO先生にランプの状態を見て貰うと、点滅すると言う。子機まではカウンター信号が届いているのだから、問題は何なのだろう。また見原さんに尋ねるしかない。観測施設からスンダールの温室へ戻る途中、竹に足を捕られたO先生が1m程下の水田に転落する。これで今年、転落する人を見るのは二度目、尻から落ち、背丈の高い稲もあったので、頭を打つことは無かった。アプローチがまだ悪い。濡れたズボンを替えるため、スリエ宅に一旦戻った。
雨期は完全に明けておらず、山の方にある雲はこちらの空を覆うような気配があった。散歩はチェットリー族が多く住む へ向かった。幹線道路をカトマンズ方向に進むと、O先生が店に居るスンダールを見つけた。旧知のお互いの会話は自然だ。長い時間がこの関係性を構築したのだろう。新しいメンバーだと紹介してもらうが、スンダールにとって未知の生物は危険かもしれない。こちらから手を伸ばすと、スンダールは両手で受け、私ももう片手を添えた。
幹線道路沿いには商店の他、学校も並ぶ。その一つにはアニタさんやスリエさんが寄進した学校もあった。O先生によると、アニタさんが米人から100万円を基金としてもらったこともあったと言う。バス、バイクの通過に気にしながら、幹線道路から集落へと進む。以前の水田や畑はすっかり住宅となってしまったらしい。カトマンズからの移住者が多く、農業とは関係しない。
住宅街の一角からマンディリ川沿いの農地を見るため、小道をたどると、段丘面と氾濫原に広がる水田が見えた。対岸下流の 寺に向かう道が伸び、その道沿いには住居が張り付いている。昔は橋も無く、川を渡るのが怖かったとO先生は言う。時期にもよるが、渡るには躊躇する川幅だ。この辺りの水田まではサルナディ取水口からの水は水路として到達していないようなので、天水依存なのだろう。段丘の途中に水場があり、きれいな水があることから、伏流水にも依存しているのだろう。
住宅地に戻り、往路を辿らず、集落道をSankhu方向へと進むと、次第に道は細く、住宅横を通るようになる。家に居たチェットリーに尋ねると、親切にも進む方向を示してくれた。このころからポツリ、ポツリとパニが落ちてきた。上空の雲は灰色、住宅地を外れると、広い段丘上の水田が見えた。真っ直ぐスリエ宅方向へ行には途中に沢があり、やはり往路に戻るしかないようだった。ポツリ、ポツリがザーになってきた。ポンチョのジッパーを外し、細長として二人でかぶる。獅子舞のように。電柱の並びを頼りに踏み跡を住宅街の往路の途中に合流し、茶屋もないので、シャッターの閉まった店の軒先で先客とともに雨宿りする。
雨宿り、心地よい言葉の響き、そしてあちこちで雨宿り。往路で追い抜いたチェットリーの修験者?も。バクシー(バイクのタクシー:Omo造語)はポンチョを使って走行を止めず、学校帰りの子供はゴミ袋を被っている。雨期には当たり前の光景なのだろう。しばらくすると、灰色の雲は少し薄くなり、雲が切れてきた。相変わらず交通量の多い幹線を戻り、異なる門を持つ旧道を少し寄り道する。かつての水路か排水路か、遺構のような水路があった。水路沿いを少し観察し、二本の旧道をつなぐ道を進むと、地震後に再建された装飾が多い建物があった。1Fの入口も木彫を施した扉が並んでいる。地震前はこのような街並みが続いていたのだろう。そこを過ぎると、地震後に作られたかまぼこ型のシェルターが残されていた。今は使われていないシェルター、記憶に残すためなのか単に物置代わりなのか、冷たいトタン板は、辛い経験を呼び覚ますだろうに。