9月11日、朝は、ミルクティーとクッキー、これで十分だ。
用水路を辿るため、日中の暑さをさけるべく朝7時にスリエ宅を出る。ペットボトルの水、カップ、カメラを2台持つが、結局1台は使用しなかった。幹線道路を横断し、門をくぐり、市街地を歩く。Sankhuは、2015年4月の地震でほぼすべての建物が倒壊、今の建物は、細めの鉄筋が入ったコンクリート柱と梁の間をレンガで塞ぐ、梁構造と面構造の合成である。木彫の飾り窓覆いがネワール住宅の特徴らしいが、多くは復元されること無く、往時の華やかさを伝えるのは、限られた建物しかない。0先生によると、当初は雑然としていた町並みも、かなり綺麗になったと言う。水場にはヒンズー教由来のレリーフがあり、清浄な水を提供している。古くは井戸とつながっていたのだろうが、現在はパイプから供給されているようだ。パイプの先はまだ分からない。
通りは早朝から多くの人が行き交い、婦人たちは盆に盛ったお供えを運んでいる。タイやラオスなどの仏教国なら、僧侶の姿が目立つのだが、ここでは僧侶の姿は見えない。滑りやすいレンガ道を市街の中に進むと、O先生がスリエ兄様(ラメッシュさん)と会話、兄様は食料品店を経営している。店には既に客なのか、雑談の馴染なのか分からないが、たむろしている。さらに進むと、Sankhuのファストフード店的な店の主(シェイク・ナーレンさん)とO先生が会話、店に入れと言う。バルピー(水牛ミルクを煮詰めた食べ物)をいただく。砂糖入りは当然の如く甘く、ノンシュガーにもタンパク質の結晶のような食感、美味しかった。お金は要らないと言う。O先生によると、以前調査に協力してもらったと言う。これらのコミュニケーションを成立させるため、O先生はどれだけ通ったのだろう。
商店、民家、水場、寺がリズムを成して並んでいる。地震前の姿は美しかっただろう。市街内の道は交通量の覆い幹線道と交差、右は 寺であるが、直進する。地震後に建てられた家々が次第に疎となり、横の見通しが効いてくると、O先生が水路道への入口を捜す。どんどん建物が立っているのだろう。少し前にあった寺横で確認した水路は、この場所で90渡に左へ折れる。幅40〜50cm、深さも同じぐらいのコンクリート水路である。この水路も地震後に再建、以前は石張り水路であったと言う。100mほど進むと分流工となるが、分流先の水路は、石やビニールで塞がれており、塞ぐための石は道横に積まれていた。積まれている感じや塞いでいる状況から、しばらくはこの状態であったことがうかがえる。
水路沿いに農地が広がり、水筒は既に水を必要としないため、水切り溝が掘られたり、倒伏を避け、稲刈りを楽にするためか、いくつかの株をまとめて結んである。これらの作業は、南方のタライ辺りからの出稼ぎ労働者が作業しているようだ。途中その集団と交差した。手に鎌を持っているのは農作業の証だが、集団がそうであると少々緊張する。それでも、魔法の言葉と合掌の所作で、全ては平穏となる。
水路の構造は無筋コンクリート、分水ゲートは無く、横穴から取水するようだ。コンターラインを辿るため、曲線を持つ水路は美しくもある。水路沿いは往来道にもなっており、数人とすれ違う。その一人の若者は、兄弟が日本に行っていると語り、自分の家、鶏を飼っていること、養蜂もしているという。これらはネパール語では無く、私には同様に難解な英語である。ネパールの英語学習は盛んで、海外への労働を意識したものなのだろう。水路橋が二箇所ほどあり、水路は土水路となった。土水路横はレンガで舗装され、歩きやすい。水路に隣接した民家では、私立学校の制服を着た少年が、葉を磨きながら英語で話しかけてくる。日本を知らないと言う。ネパールでも盛んなパレボール強いのだぞと言うのだが、全く印象は無いようだ。決して裕福には見えない住家には母親らしき影はあるが、接触は無かった。子供への教育投資はこの家計にとって、大きな負担ではあるが、親としては身を削ってでも子供の将来を夢見ているのだろう。
水路は自動車道と並走し、我々も自動車道を進む。サルナディ川が横にあり、道路路体が一部崩れている。水路は道路を横断し、やがて取水施設が見えてきた。住宅横から水路沿いに取水口を目指すが、幅20cm程のスライドゲートが見えるものの、取水口が見えない。川の水量は川側から近づくことを許さない。
水管理人
車道沿いの帰路、トマトハウス、オランダのオーファント施設
サルナディ寺
チャイと軽食の昼食
あぜ道を帰る
Devi nachの始まり、チャンサービス、ティカ
若者達の踊りが始まる
踊り続ける若者、群衆