Sankhu-12

 9月20日、昨日のKathmandu往復の疲れが残り、喉の調子も悪い。明け方から咳が出る。熱は無いし、喉の痛みもそれほどではない。軽い気管支炎なのだろう。Proさんから貰った薬セットから、咳止めを捜す。Proさんの人柄を伺えるパッケージングは、見るたびに関心してしまう。咳止めのパッケージには三種類が入っいる。咳止めなんて飲んだことは無いので、1回の必要錠剤が多いタブレットから試す。

 スリエさんが説明する気象観測と病害予測の最終原稿を三人で確認する。来てもらったメンバーに対しては、0先生が持ち込んだH社のZカレーをもてなすことは前夜に了解を得ていた。Santyさんに食材の有無を尋ね、不足する肉、野菜の買い出しにO先生と街へ出る。夕立が来そうな空を眺めつつ、Santyさんから聞いた旧家に近い店を捜す。旧家を過ぎても店は見つからず、以前のお祭り舞台となった広場の近くで肉屋を見つけた。通りに面した台には何もなく、店の奥には暇そうにした女性が居る。チキン半分と言うと、台の下から半身のチキンを取り出し、計量する。値段がネパール語なので、分からない。困った女性は、隣の店に声を掛ける。店からは同じ年頃の女性が出てきて、O先生のスマホ電卓に値段を示す。なかなか良い方法だ。半身の肉はいつの間にかに5cm各程度に裁断されていたのに気付いたのは、調理を始めてからだった。少額のルピーが無かったので、その両替も支払いも隣の女性がやってくれた。肉屋の女性と分かれるときは、万能のNamasute、怖い顔が優しくなる。来た道を戻り、旧家近くの八百屋で野菜をみていると、スリエさんがバイクでやって来た。玉ねぎ、人参を購入する。遠くで雷鳴があり、夕立の気配が濃厚となった。急ぎ足でスリエ宅に戻り、16時から札幌のF氏とZoomミーティング、Susaさんの登場にF氏は大喜びする。明日の進行内容を一通り説明する。

 夕食前の時間を利用して、カレーを料理する。料理すると言っても、ジャガイモの芽を取り、表皮を削り、人参削り、玉ねぎ剥いてみじん切り、その他は乱切り。肉屋で細かくなった肉は、骨付きのままさらに一口大とする。オイルをフライパンに入れ、低温の内に刻んだにんにくを浸す。オイルの温度が上がったら、みじん切りの玉ねぎを茶色になるまで炒め、肉の表面を焼く。肉を一旦取り出し、空いたフライパンに野菜を投入、しばし炒める。玉ねぎが少ししんなりしてきたら、大鍋に野菜を移し、水を注ぐ。煮立ったら、生姜とりんごを擦り下ろした肉を投入、ローリエを入れて、煮込む。ギャラリーのSantyさん、Susaさんの興味津々の視線を感じながら作業する。あー面倒くさい、世界中の主婦はこんな面倒なことを四六時中実施しているのかと思うとともに、料理は世界共通語なのかなとも思う。

 夕食をスリエさんと取り、部屋に戻る。休むと咳が出る。交感神経と副交感神経の関係だろうか。三度目のタブレットを飲み込んだ。

Sankhu-11

 9月19日、Nexag対応は、タイマーBoxが届くまで成す術が無い。O先生は、データー吸い上げ、加工をPythonで行ってる。Pythonによるdata処理を学ぼうと思ったが、どうも集中できない。昨日の予定であったRajuに会うためKathmanduへBusで行くこととする。体調は万全では無いが、熱は無いし、下痢も無い。朝食は山で撮れた蜂蜜付きの小麦薄焼きパンとダル・スープ、そしてミルクティー、いつも美味しい。

 天気が良いので、敷ふとんを屋上の欄干に干す。そして、日記ブログのキーを叩く。午後に会うこととしたので、Sankhuを10時頃に出るとする。終点のKathmandu Mallまで1時間弱、そこからRajuのオフィスまでは40分くらい歩くことになりそうだ。そうそう、お土産のSBカレー粉を忘れずに。

 土曜日のミーティングで、気象観測による病害危険度判定の説明をスリエさんにしてもらうため、O先生がまとめた読み原稿をネパール語に自動翻訳し、彼のWhatsappに送る。なんや、かんだで出発は10時半過ぎとなった。近くの旧バスターミナルにバスが停車しており、新バスターミナルから後ろに止まると、前のバスが発車する。

 ローカルバスの座席はほぼ埋まっており、最後尾に空き席を見つけ、鎮座する。左側の窓際には後から聞いた12歳の女の子が座っていた。時折、白ひげの変な異邦人を興味深そうに覗き、こちらが視線を向けると、目を逸らす。後から乗り込んできた男性との会話で、後部座席は彼のファミリーと妹達だと分かった。バスの乗車ドアは閉まらない。ステップに立つ車掌が、バス停毎に行先を何度も告げる。その言葉は聞き取れないが、発車はバスの外壁を叩いて、運転手に告げる。日中だけど乗り降りがかなりある。後で今日が建国記念日で、休日であることを聞く。Kathmandu市内まで、いくつかの沢を超え、丘を登る。予想外に風邪が気持ちよく、車内で暑さを感じることは無かった。

 バスはボーダナート寺院の横を通り、混雑する街中を中心部へと向かう。人、車、バイク、店、カオスだ。定刻など無いバスは、聞いていたKathmandu Mallまで行かず、タメル公園が終点となる。ファミリーの父親がここが終点だと言う。皆が降りるわけではない停車、車掌にここが終点かと聞くと、身振りから「そうだ」と理解する。バス停の近くには、バス溜まりがあり、Sankhuへの帰りはここからバスに乗れば良いのだろうと考えるが、Mapにポインティングするのを忘れてしまった。

 ここからの徒歩行は、ツアー会社を終点としたMapに案内させる。歩道橋を渡り、地下道をくぐる。主要道を横断するのは危険すぎるし、信号も無い。主要道から細い道へ入ると、両側に商店が並ぶタメルエリアを通る。その情景を書き表そうとすると、恐ろしい文字数になる。バスから見たカオスに工事が加わり、一時の静止も静寂も許されない。これが現在のKathmanduなのだ。44年前のKathmanduは、朝の気持ち良い空気に薪が燃える匂いがした。自分はこの匂いの朝をKathmanduモーニングと呼んで、一人越に行っていたが、その面影は跡形もない。

 小路と言っても、車やバイクが駆け抜け、人は縁に追いやられる。小路、広場、小路が続き、広場で行先の小路を確認する。スマホがなければ歩けないし、スマホ頼りが恐ろしい。タメルの街角では、日本人と見抜かれ、声を掛けてくる怪しい者も居た。完全無視する。13時を過ぎた頃だろうか、空腹を感じ、道横の小さな地元食堂に立ち寄り、ツクパを食べる。進路は川とぶつかると、寺社の境内を抜け、フットサル競技場を目指す。目指す会社はMapに掲載されているが、会社の看板も無く分からない。近くの売り子にRajuの名を出しても、知らないのリアクション。別の店でも尋ねると、会社名が出ていると言う。そちらの方向へ進むと、それらしき物もなく、RajuにWhatappメッセージ、電話するが応答が無い。困り果てていると、通りかかった女性が、Rajuはここだとガイドしてくれる。その先はバイク屋で、主人が奥のドアへと案内する。なんか、やばい物の運び人のような気持ち。主人は、階下からRajuの名を呼び、しばらくして階上から返答があった。

 さあ、密売の交渉ではなくて、ツアー内容を確認せねばならない。二階に上がると、Webで見たRajuが居た。部屋に案内されると、他に二人の若者が居た。まずはRajuと握手する。パソコンの画面を見ながら、入金は確認している。と言う。今回のツアー料金の送金は、手付け金として20%、そして日本を出る前に80%をWISEを使って送金している。現在の送金システムの中では2番目に手数料が安いと言われており、銀行を経由しない口座間の送金である。20%の送金には少々躊躇ったが、送金時間は短く驚いた。既に全額の支払いは終えている。後は物を貰って、でなくてツアーの最終確認だ。日程、Meme Pokhariでの三泊滞在、体調による日程調整を話す。一日の歩行時間は短くて5時間、長くても8時間だと言う。高度の話では、これまでの最高到達標高を聞かれたので、カリガンダキ川からダウラギリから伸びる尾根の4500m程度だと答えた。今回のツアーの最高標高に近い。装備では、やはり自分の持ってきたシュラフは使えないようだった。ウールの下着や防寒ズボンもあると言ったが、-15℃対応のシュラフが良いと言う。どのみちそのようなシュラフは無いのだから、レンタルするしかない。ツアーメンバーは当初聞いていた6人から7人になりそうだと言う。地元のガイドを雇う話はメールでしていた。人数が増えても料金は変わらないとRajuは言う。チップは6人分しか用意していないから、Rajuの分はルピーで払おうと思った。

 この会社にとって日本人は初めてかと聞くと、4〜5回日本人のパーティと言った。少々、残念に思う。このツアールートはと聞くと、初めてだとの回答だった。8月は地元民のツアーはあるが、この時期は誰も居ないだろうとも。居たとしてもネパールの若者がテントを担いで歩く程度だろうと。目的であるモニュメントのことで、地元首長との面会を尋ねる。Kathmanndu

帰路、タメル公園、バス停は何処だ、こっちだ、あっちだ、

ボーダナート寺から乗るため歩く、バッテリーの残量、陽が傾く、危険な道路横断、

バクシー、300だけど500欲しい、撮影、ボーダナート寺院、バス停は何処だ、バスはどれだ、ラマ僧に尋ねる、

満員バス、少し太り過ぎでは、Sankhu帰還、やれやれ

Sankhu-10

 9月18日、Nepal国に着いて早10日が経過した。毎日、歩いたり、Nexag対応、スリエさんからの聞き取り、今週末のミニ会合の準備に明け暮れる。空港から真っ直ぐSankhuに入ったので、Kathmandu市内の中心部にはまだ足を踏み入れていない。数日前にKathmanduのRajuには、今日の午前中に会社へ行と連絡していたが、Nexagを動かすことを優先させなければならない。Rajuに延期をWhatappで伝えた。

 O先生とNexag対応を話す。

 ミーティング準備のため、シナリオを整理する。0先生のPotatoesの問題整理を農家に分かりやすく整理する。シナリオ整理に夢中になり、Nexag対応が遅くなる、

 タイマーBoxと電源コントローラーの配線は簡単に外せるし、e-DISP や子機との配線は色分けされているので、切断してもらえれば、再接続は可能である。タイマーBoxを送付してもらうことをO先生から札幌にお願いしてもらう。問題は発送、受荷の方法だが、ネットで調べると、クロネコヤマトにはネパール発送のサービスがある。世の中どんどん進歩している。JICA事務所を頼ることなんて、まったく不要なのだ。

 一連の処理を終え、ぐっと疲れを感じた。少々風邪っぽいが、体温計の温度は平常だった。今日は満月のお祭りだが、参加できないかもしれない。しばらく横になって休む。そして、いつもの夕方停電が発生した。

 しばらくして、スリエさんが夕食を伝えてくれた。少し休んだことで、楽にはなったが、本調子ではない。食卓には、お祭りのプレートがあった。中央の乾飯を肉、豆、アル、野菜が取り囲んでる。ネワール独自の文化を感じる。停電はまだ続き、隣接するバクタプール方面は街灯が灯っている。食卓にはLEDライトが一つだけ。お祭りの夜には相応しい雰囲気だ。そして、満月祭の天体は東の空に輝いている。ハレのプレートを撮影し、先週、覚えた右手で乾飯(チューラ)を食べることは、難しそうなので、今晩は久々にスプーンを使う。しばらくして停電は解消した。添えられたロキシーを数口飲む。体が熱くなり、不調の熱と混合し、昇華する。アルコール消毒が効いたのか、お祭りには行けそうだった。

 食事後、スリエ夫妻とO先生、私の四人で街へ出る。今日始めての外出となる。旧道門を潜り、別の旧道へと折れる。歩いたことのある道なのに、闇は見たくないものを消してくれるので、昼間とは違う表情がある。お祭りのため、人々が散策し、広場では「チャン」が無料で飲める。仮面像の口からでるチャンを次々と人々が空中で捉える。子どもも飲むのであるから、極めて発酵度が低い状態なのだろう。夜風が気持ちよく、度々の停電が闇を深くする。

 スリエさんは現在も続くトルと言われるコミュニティのリーダーを昔務めていたので、旧知の人が多く、移動する度に声をかけら、挨拶を交わされる。その中に、NPO活動で日本にもきたことがあるジュルムさんも居た。我々とジュルムさん、彼女の友人の六人で古い聖域を巡る。聖域の場所は、辻であったり、民家の通路を通った中庭であったりする。このお祭りでなければ立ち入れない場所もあるそうだ。仏教とヒンズーが融合しつつも、今日は仏教のお祭りで、前回尋ねたヴァジュラヨギン寺とは関係が無いと言う。トルに残る集会所では、経を読んだり、音楽が奏でられる。

 チャンの振る舞い、読経、音楽、舞踏、サークル遊び、雑踏、石段に座りかたりあう人々、そして夜風、日本のお祭りも昔はこのようだったのかと思いながら、散策を楽しむ。Sankhuには8つのトルがあり、その全てを回り、スリエさんと縁のある聖域を巡礼する。彼と出会わなければできない体験に嬉しくなる。当然、この夜の異邦人は我々二人だけだ。

 家に戻る夜道、きれいな満月を見ながら、スリエさんに狼男を知っているかと尋ねるが、そのような寓話は伝達していないようだった。月に向かって吠えてみるが、笑われてしまった。散策で暖かくなったからだは、久々の心地よい眠りをもたらした。これまでの睡眠不足も解消できたようだ。

Sankhu-9

 9月17日(火曜日)目が覚めると、いつものように外は暗く、コケコッコーとワンワンワン。スリエさんは5時半ごろに出かけるのが分かる。Nexagのことが気になりつつも、ミーティングの会話をどのようにすすめるかが課題だった。頭に浮かぶ方法を整理する。Google 翻訳は日本語をネパール語で変換すれば、そのまま発音してくれる。スマホ、PCでも使えるし、履歴を使えば、事前に発言内容を入力しておける。NPOのWebも言語変換機能があるので、目次や概要をネパール語で示すことはできる。課題は、今週末は通訳者を予定していないので、集まったメンバーの発言を我々がどのように理解するかである。日本語と同様にGoogle翻訳は使えるが、変換には発言をゆっくり、短くする必要がある。他に、NPOのWebに付加したFolum機能を使い、ネパール語か英語でテーマ毎に打ち込んでもらい、我々のPCで日本語化する方法もある。キーを叩いていると、O先生も動き出された。

 バジルティーの塩加減にはいつも関心させられる。朝食前に観測機器の点検に向かうが、これまで夕立に捕まった時、トレッキング・ブーツは雨で中まで濡れてしまう。どうやら、ゴアテックスの機能が低下しているようだ。スリエさんはまだ戻っていないので、サンティーさんに「ゴム長靴をかしてもらえないか?」とGoogle翻訳でお願いする。彼女は直ぐに外へでて、ガーデニング用の長靴を貸してくれた。雨は止んだが、濡れた稲と雑草の踏み跡をステーションまで向かう。観測機器の外観に以上は無い。本体下にむき出しで置いたバッテリーも濡れた様子は無い。Nexag本体蓋を開けると、ソーラーチャージ・ランプは、曇り空でも緑点灯、バッテリー電圧も赤点灯で異常は無かった。e-DISPの画面は、1時間に1回の送信時以外は、何も表示されないので、メイン電源をOFF、e-DISPのパネルボタンを押しながら、メイン電源をONする。しばらe-DISPパネルボタンを押し続けるが、画面には何の表示も無い。

 O先生も心配されやって来た。以前、ハウス骨材の竹に足を捕られ、水田へ落ちているので、私一人で行と言ったのに。e-DISPを本体から外し、O先生の手を借りてバッテリーと直結する。e-DISPは起動画面を表示する。バッテリー、e-DISPに問題はなさそうだ。となると、計測子機との関係か。

DDLのMさんからは、本体機器内の配線を撮影して欲しいとの指示があった。内部配線を撮影していると、電源コントローラーと接続する白いBoxをつなぐ白い配線にすすのような物があった。ドライバーでネジを外し、内部を確認すると、トランジスター素子とBox内部の一部が煤けているのが分かった。多分、これが電源供給を妨げているのだろうが、その原因は不明である。

 部屋に戻り、札幌のFさんとZoomをする。こちらの作業状況、ミーティング準備を説明し、私からは回路の焼損状況を伝える。時差の関係からDDLのMさんには、内部配線写真は明日見てください。と既にメールしていたが、焼損のことを伝えるため、Google Driveに一連の写真をアップし、メッセージを送信した。Mさんからは明日、ハード担当者に見せて、判断するとの返信があった。

Sankhu-8

 9月16日月曜日、朝は鶏がやかましく、6時前には起き出す。毎日歩いているので、さすがに今日は探索は止めることにする。今週末にスリエさんの仲間を交えたミーティング、次週末にはさらに拡大メンバーによる札幌とのミーティングを予定している。

 ミーティングの構成と内容を詰めなければならない。スリエさんの都合を聞き、ほぼ今日一日付き合ってもらえそうだった。O先生とミーティングの目的、概要を整理し、Webの翻訳機能を利用して、スリエさんに理解してもらうとともに、我々の整理もすすめる。

 スリエさんは、自分の考えを書くと言ってくれたので、三者それぞれがキーを叩く。スリエさんからは、三回に渡る情報を提供してもらった。Potato生産の問題、生産グループがやるべきこと、そして過去のSeed Potato生産の顛末である。これらのレポートを元に、お互いの理解を整理する。

 屋上から周辺を眺めると、昨日行った・スリエハウスが視える気がした。望遠で覗くと、家々に囲まれ、大きくなった木の隙間から、目標を確認することができた。クリシュナさんの家は、街側に木が無いので、よく見える。この頃から、定点的な撮影を始めることとする。

 昼食はDBT、毎回違うタルカリで楽しませてくれる。右手で食べることにも慣れてきたけど、終わった後の手を使うには一度洗わなければならない。

 スリエさんとの離しが続く、農薬の定義がお互い異なるので、スリエさんは現物を持ってきた。容器や袋には、読めるものなら読んでみろとの感じで、小さな文字が書かれている。注意書きを丁寧に読む農家は居るのだろうか?

 ようやく、全体のイメージが構築できて、Nexagのデータをチェックしてみたら、今日の13時以降のデータの入信が無いことに気づく。O先生が別サイトで確認しても同様だった。既に辺りは暗く、確認にも行けないので点検は明日朝とするが、Nexagの復帰はわずか数日で終わってしまった。

Sankhu-7

9月15日、日曜日だけど休日では無い。いつものバジル・ティーで一日が始まる。天気予報は相変わらず午後からの雨を伝える。昨日のヴァジュラ・ヨウギン往復の疲れがO先生に残る。アニタさんとスリエさんが造った丘にある家を見に行きたいので、場所をO先生に尋ねると、一緒に行ってくれると言う。フレンチ・トーストを頂き、出発の準備をする。

スリエさんからは鍵の束を渡されているが、どれが家の鍵なのかは分からない。久しく行っていないので、草刈り鎌を借りてゆく。

サルナディ寺へは、水路横のあぜ道を辿る。寺方向にあるカラフルな円形テントを目標に、地域の人も通るあぜ道を進む。この辺りがSankhu市街近くでまとまった水田が残るエリアだ。都市化の勢いは激しい。

サルナディ寺を右手に、サルナディ川にかかる橋まで下ると、次は上り勾配だ。バイクやトラックが往来し、その度に後ろを気にする。

脇道を入る、Potatoの植え付け、スリエ父の旧家、graniteとslate、

アニタ・スリエハウス、Sobaさん、合歓の木

クリシュナさん、クリシュナ娘、86歳のおばあちゃん、成田の息子、菜園

舗装道路の帰路、サルナディ寺横でランチ、あぜ道の帰り道

Sankhu-6

 9月14日土曜日は、Nepalでは休日である。前日にスリエさんは2件のソーシャルワーク案件がある。今日は、O先生とBajrayogini TempleからSankhuを俯瞰することを前日に予定した。スサさんが案内に同行すると行ってくれたが、老人が若い娘と歩くのは辛いし、のんびり歩くことは彼女には迷惑だろう。何よりも大事な休日を我々に費やすのは犯罪だ。でもそう言ってくれた気持ちは嬉しかった。朝一番にバジル・ティーを頂き、その後の朝食は、ミルクティーと丸いブレッド、ソーセージにスリエさんのアスパラガス、最初はあまりに細くてアスパラとは分からなかった。移植時の施肥が足りなかったのだろう。

 天気予報では昼から雨なので、のんびりするO先生に出発を急かす。幹線道路を横切り、旧道の途中から左折し、もう一本の旧道を進む。右側に水路蓋として水路を横断する切石が並ぶ。地震前の姿を残す数少ない証人である。現在は排水路の機能しか与えられておらず、プラスチックごみが散乱する。水路側壁と底面はレンガである。レンガ間の隙間から漏れる水は地下水を涵養していたのかもしれない。側溝に面した洋服屋の婦人にスマホの翻訳機能を使い、昔は水が流れていたのですかと聞く、うなづくことで往時の姿を想像させてくれた。いつ頃までとも聞きたかったが、答えを翻訳することを躊躇った。

 旧道沿いに歩き、段丘面を上流へたどる。

水場の子どもたち、排水路とその先の農地、貯水池、鍛冶屋の親父、死者の門

石畳道、休憩所、本堂、僧院防、安置場

チャイ、展望台、タルチョー

水道施設と展望所、広がる街並み、トマトハウス

再び本堂、僧、滑る石畳

放棄された造成地と斜面崩壊、真砂土

Sankhu-5

 9月13日、昨夜は早めに休んだ。食事は十分だが、睡眠が少し不足している。体細胞の水分が札幌起源から次第にSankhuとミネラルWater起源に変わりつつある。懸念した下痢の症状は全く無い。5時前に目が覚め、キーボードを叩く。ネット環境は札幌と変わらないが、夕方に多い停電が混乱を招く。

 今日は、10時からスリエさんへのこれまでのNexagによる観測と防除対策の詳細説明を予定している。O先生はその原稿修正のため6時頃から作業を始められた。DeelLでは日本語からネパール語に変換できないため、Webでの変換に問題が無いか英語化して確認しながら。これまで何をしてきたのかを彼らに理解してもらえないと、次のステップには進めないし、NPOとして不誠実である。スリエさんの好意に甘えたまま、彼が対価を求めていなのは明らかだが、このままでは失礼である。O先生からは、その都度、過去の活動と関連情報をいろいろと伺う。一つ一つの事実は、私にとって初耳で、興味をもたらすのだが、それらは文字として見てはいないし、あったとしtも見ている余裕は無かった。それでも、失礼とは承知しつつも、O先生には度々進言した。「文字にしてください。記録を残してください。」「このままでは、先生が一人で楽しんでいるだけです。」楽しんでいる、先生にはそのことばが解釈できなかったのだろう、怪訝な顔をされたが、私にはそう感じた。10畳ほどの空間に後期高齢と初老の男性が二人、三週間を過ごすことに出発前から不安は無かった。それだけO先生から聞ける話が大切で、こちらの失礼な発言すら受け入れてくれる先生は偉大な人物だ。だから、多くのSankhuの人たちとも顔なじみになれたのだろう。でも、私は違う。

 スリエさんからのレポートもまだ理解ができないので教えてもらわねばならない。それと、昨夜DDLのMさんから送ってもらった雨量計のカウンターリセット用sh.をe-DISPのSDカードに書き込んで、雨量計を機能させたい。

 7時にスリエさんがミントティーを運んでくれる。チャパティとアル、ミニトマトの朝食は丁度よい。全く違和感が無い。

 Nexagの中間報告の概要版は、説明開始2時間前にGoogle drive上で脱稿となった。章毎に文書をコピーし、WebのPage毎にペースト、図、写真を貼り付ける。図は「中間報告」で既にアップしてあるので、ファイルを探せば良い。概要版の目次ページを作り、章ごとに目次へのリンクを貼る。これで、ネパール語への変換が可能となる。ここは札幌で作業しているのかと思うほど作業に違和感が無い。

 スリエさんへの説明は1時間半ほどかけ、日本語とネパール語を表示するPCを並べて、ゆっくりとO先生が行った。疫病の言葉など、曖昧に翻訳された単語もあったが、仲間への説明を考え、スリエさんも大変だっただろう。昼食はDBT(Dall Bart Tallcari)、バートに注ぐ豆スープの量を調整したら、昨日より上手く食べることができた。食事後、サンティー婦人がコヒーはと尋ねてくる。カップを取りに部屋へ戻り、3Fの食堂にもどれば、スリエさんが紙フィルターを折っている。サンティー婦人は要らないと言うが、カップ2つと言うと、ガラスコップを持ってきた。砂糖とミルクを入れると美味しいと言うと、スリエさんが婦人のグラスに砂糖をセットした。ドリップはスリエさん、蒸らしも覚えてくれた。そして、サンティー婦人のカップに注がれた砂糖が消えるまでかき混ぜる。いつもLove、Loveの二人だ。

 スリエさんは雲を見て、雨になりそうだと言う。少し横になりたかったが、NexagのSDカードに書き込む準備をすすめる。ポンチョを今日も使うのだろうか。玄関を出ると、怪しい雲が見えた。たむろする若者にナマステ、怖い顔が優しくなり、ナマステが返ってくる。観測計器に着き、準備を始めると雷鳴が響く。昨日より早い時刻だ。こうして雨期は終わってゆくのだろうかと思いながら、作業時に振られた場合を想定してから一連のタスクをこなす。本体の扉を閉じると、雨が落ちてきた。雨量計に昨日のこしたボトルの水を注入、転倒枡が盛んに作動する。雨なのでライトの点滅は確認できなかった。自然の降雨があれば、それも好都合だろう。一気に豪雨となり、被ったポンチョが今日も役立つ。ザックのPCも工具も濡れずに済みそうだ。裾を少し上げながら、スンダールの作業者と挨拶して道へ戻る。ポンチョ姿は珍しくないのだろうが、豪雨の中をあるく者を雨宿りの連中は怪訝な顔をして眺めていた。15時の送信データには、雨量計のカウンター値が記録されており、大量注水量は換算雨量に近く、その後続いた降雨、晴れを反映したデーターとなっていた。これで雨量データーも計測が可能となった。

Sankhu-3

 9月11日、朝は、ミルクティーとクッキー、これで十分だ。

 用水路を辿るため、日中の暑さをさけるべく朝7時にスリエ宅を出る。ペットボトルの水、カップ、カメラを2台持つが、結局1台は使用しなかった。幹線道路を横断し、門をくぐり、市街地を歩く。Sankhuは、2015年4月の地震でほぼすべての建物が倒壊、今の建物は、細めの鉄筋が入ったコンクリート柱と梁の間をレンガで塞ぐ、梁構造と面構造の合成である。木彫の飾り窓覆いがネワール住宅の特徴らしいが、多くは復元されること無く、往時の華やかさを伝えるのは、限られた建物しかない。0先生によると、当初は雑然としていた町並みも、かなり綺麗になったと言う。水場にはヒンズー教由来のレリーフがあり、清浄な水を提供している。古くは井戸とつながっていたのだろうが、現在はパイプから供給されているようだ。パイプの先はまだ分からない。

 通りは早朝から多くの人が行き交い、婦人たちは盆に盛ったお供えを運んでいる。タイやラオスなどの仏教国なら、僧侶の姿が目立つのだが、ここでは僧侶の姿は見えない。滑りやすいレンガ道を市街の中に進むと、O先生がスリエ兄様(ラメッシュさん)と会話、兄様は食料品店を経営している。店には既に客なのか、雑談の馴染なのか分からないが、たむろしている。さらに進むと、Sankhuのファストフード店的な店の主(シェイク・ナーレンさん)とO先生が会話、店に入れと言う。バルピー(水牛ミルクを煮詰めた食べ物)をいただく。砂糖入りは当然の如く甘く、ノンシュガーにもタンパク質の結晶のような食感、美味しかった。お金は要らないと言う。O先生によると、以前調査に協力してもらったと言う。これらのコミュニケーションを成立させるため、O先生はどれだけ通ったのだろう。

 商店、民家、水場、寺がリズムを成して並んでいる。地震前の姿は美しかっただろう。市街内の道は交通量の覆い幹線道と交差、右は  寺であるが、直進する。地震後に建てられた家々が次第に疎となり、横の見通しが効いてくると、O先生が水路道への入口を捜す。どんどん建物が立っているのだろう。少し前にあった寺横で確認した水路は、この場所で90渡に左へ折れる。幅40〜50cm、深さも同じぐらいのコンクリート水路である。この水路も地震後に再建、以前は石張り水路であったと言う。100mほど進むと分流工となるが、分流先の水路は、石やビニールで塞がれており、塞ぐための石は道横に積まれていた。積まれている感じや塞いでいる状況から、しばらくはこの状態であったことがうかがえる。

 水路沿いに農地が広がり、水筒は既に水を必要としないため、水切り溝が掘られたり、倒伏を避け、稲刈りを楽にするためか、いくつかの株をまとめて結んである。これらの作業は、南方のタライ辺りからの出稼ぎ労働者が作業しているようだ。途中その集団と交差した。手に鎌を持っているのは農作業の証だが、集団がそうであると少々緊張する。それでも、魔法の言葉と合掌の所作で、全ては平穏となる。

 水路の構造は無筋コンクリート、分水ゲートは無く、横穴から取水するようだ。コンターラインを辿るため、曲線を持つ水路は美しくもある。水路沿いは往来道にもなっており、数人とすれ違う。その一人の若者は、兄弟が日本に行っていると語り、自分の家、鶏を飼っていること、養蜂もしているという。これらはネパール語では無く、私には同様に難解な英語である。ネパールの英語学習は盛んで、海外への労働を意識したものなのだろう。水路橋が二箇所ほどあり、水路は土水路となった。土水路横はレンガで舗装され、歩きやすい。水路に隣接した民家では、私立学校の制服を着た少年が、葉を磨きながら英語で話しかけてくる。日本を知らないと言う。ネパールでも盛んなパレボール強いのだぞと言うのだが、全く印象は無いようだ。決して裕福には見えない住家には母親らしき影はあるが、接触は無かった。子供への教育投資はこの家計にとって、大きな負担ではあるが、親としては身を削ってでも子供の将来を夢見ているのだろう。

 水路は自動車道と並走し、我々も自動車道を進む。サルナディ川が横にあり、道路路体が一部崩れている。水路は道路を横断し、やがて取水施設が見えてきた。住宅横から水路沿いに取水口を目指すが、幅20cm程のスライドゲートが見えるものの、取水口が見えない。川の水量は川側から近づくことを許さない。

水管理人

車道沿いの帰路、トマトハウス、オランダのオーファント施設

サルナディ寺

チャイと軽食の昼食

あぜ道を帰る

Devi nachの始まり、チャンサービス、ティカ

若者達の踊りが始まる

踊り続ける若者、群衆

Sankhu-4

 9月12日、Sankhuの夜明けは6時頃、今朝がこれまでと違うのは、Narayan Mandirの奏楽がかすかに聞こえることか。昨日の用水路歩きと夜の熱狂に疲れ、着たままベッドにダイブしたO先生も、7時頃には動き出された。サンディー婦人のミルクティーで脳を覚まし、予定どおり内業の一日が始まった。スリエさんとサンディー婦人がSankhuの朝軽食を運んできてくれる。

 スリエさんを捕まえ、昨日作成した行動計画をネパール語で読んでもらう。合わせて「皆様と私たち」と題した資料を示すが、複数言語の資料は使いづらく、O先生が口頭で説明することとなる。スリエさんは、今回の我々の滞在理由を理解し、自分の考えを書くと言う。

 スリエさんのレポートは、三回に分かれWhatsappのグループ送信があった。androidと違いiPoneは、Whatsappの直接翻訳ができない。文をコピー、自分宛のG-mailに貼り付け、送信、ブラウザからG-mailを読めば、自動翻訳が使える。O先生は、Nexagの中間報告資料を修正、私といえば、昨夜の写真、動画ファイルを整理するものの、Mac Air M1のUsb-Cに繋いだUsb-B変換器とメモリーReaderの相性なのか、動画ファイルがMacに落とせない。O先生が持ち込んだSankhu用のWin PCを借りるものの、動画ファイルの一つはサベージできなかった。

 いつも食事をサンディー婦人に世話してもらうのも悪いので、散歩を兼ね、外で昼食を取ろうとO先生に提案すると、「何故?」と聞かれるよと返答される。気分転換の散歩だといいますよと言って、サンディー婦人に翻訳文を見て貰うと、近くにいたスサが、母親の顔を見て「Why?」と来た。そして、既に準備ができているとも。これには抗うことはできない。分かりました。散歩は、食べた後にしますと言って退散した。

 昼食は、今日は家に居るスリエさんと一緒となる。スリエさんの右手の親指の使い方を教わり、ネパール式で食事を初めてした。O先生は、田舎でそれをすると喜んでもらえると言う。

 O先生のNexag中間報告の修正に一段落した後、雨量計のデーターが送信されないことから、DDL見原さんの指示により、転倒枡作動時のロガーランプの点滅を確認するため、観測施設へ向かう。準備しながら、窓の外を覗くと、スリエさんとサンディー婦人が仲睦まじくキッチンガーデンの手入れをしている。このお二人は本当に仲が良い。雨量計に水を注ぐと、転倒枡の作動音と排水がある。ポンチョを覆いとしてO先生にランプの状態を見て貰うと、点滅すると言う。子機まではカウンター信号が届いているのだから、問題は何なのだろう。また見原さんに尋ねるしかない。観測施設からスンダールの温室へ戻る途中、竹に足を捕られたO先生が1m程下の水田に転落する。これで今年、転落する人を見るのは二度目、尻から落ち、背丈の高い稲もあったので、頭を打つことは無かった。アプローチがまだ悪い。濡れたズボンを替えるため、スリエ宅に一旦戻った。

 雨期は完全に明けておらず、山の方にある雲はこちらの空を覆うような気配があった。散歩はチェットリー族が多く住む  へ向かった。幹線道路をカトマンズ方向に進むと、O先生が店に居るスンダールを見つけた。旧知のお互いの会話は自然だ。長い時間がこの関係性を構築したのだろう。新しいメンバーだと紹介してもらうが、スンダールにとって未知の生物は危険かもしれない。こちらから手を伸ばすと、スンダールは両手で受け、私ももう片手を添えた。

 幹線道路沿いには商店の他、学校も並ぶ。その一つにはアニタさんやスリエさんが寄進した学校もあった。O先生によると、アニタさんが米人から100万円を基金としてもらったこともあったと言う。バス、バイクの通過に気にしながら、幹線道路から集落へと進む。以前の水田や畑はすっかり住宅となってしまったらしい。カトマンズからの移住者が多く、農業とは関係しない。

 住宅街の一角からマンディリ川沿いの農地を見るため、小道をたどると、段丘面と氾濫原に広がる水田が見えた。対岸下流の  寺に向かう道が伸び、その道沿いには住居が張り付いている。昔は橋も無く、川を渡るのが怖かったとO先生は言う。時期にもよるが、渡るには躊躇する川幅だ。この辺りの水田まではサルナディ取水口からの水は水路として到達していないようなので、天水依存なのだろう。段丘の途中に水場があり、きれいな水があることから、伏流水にも依存しているのだろう。

 住宅地に戻り、往路を辿らず、集落道をSankhu方向へと進むと、次第に道は細く、住宅横を通るようになる。家に居たチェットリーに尋ねると、親切にも進む方向を示してくれた。このころからポツリ、ポツリとパニが落ちてきた。上空の雲は灰色、住宅地を外れると、広い段丘上の水田が見えた。真っ直ぐスリエ宅方向へ行には途中に沢があり、やはり往路に戻るしかないようだった。ポツリ、ポツリがザーになってきた。ポンチョのジッパーを外し、細長として二人でかぶる。獅子舞のように。電柱の並びを頼りに踏み跡を住宅街の往路の途中に合流し、茶屋もないので、シャッターの閉まった店の軒先で先客とともに雨宿りする。

 雨宿り、心地よい言葉の響き、そしてあちこちで雨宿り。往路で追い抜いたチェットリーの修験者?も。バクシー(バイクのタクシー:Omo造語)はポンチョを使って走行を止めず、学校帰りの子供はゴミ袋を被っている。雨期には当たり前の光景なのだろう。しばらくすると、灰色の雲は少し薄くなり、雲が切れてきた。相変わらず交通量の多い幹線を戻り、異なる門を持つ旧道を少し寄り道する。かつての水路か排水路か、遺構のような水路があった。水路沿いを少し観察し、二本の旧道をつなぐ道を進むと、地震後に再建された装飾が多い建物があった。1Fの入口も木彫を施した扉が並んでいる。地震前はこのような街並みが続いていたのだろう。そこを過ぎると、地震後に作られたかまぼこ型のシェルターが残されていた。今は使われていないシェルター、記憶に残すためなのか単に物置代わりなのか、冷たいトタン板は、辛い経験を呼び覚ますだろうに。

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