Sankhu-2

 O先生も私も、6時には動き出す。まだ整理のつかないスーツケースをガサガサかき回し、必要な道具を取り出すのだが、次の捜し物にまた一苦労する。スリエ氏がミルクティーを持ってきてくれる。ありがたい。O先生によるとミルド・コーヒーは入手できないそうで、しばらくは断コーヒーとなりそうだ。スリエ氏とバッテリー仕様を相談していると、サンディ婦人が朝食を運んできてくれる。彼らは2回/日の食事なのだから、我々もそれに合わせると言ったのだが、まだうまく伝わっていないのかもしれない。

 トーストの味は、日本と何も変わらない。ゆで卵の味も。違うのは皿が絨毯の上にあることぐらいか。バッテリーのACCは、店に往かずとも、ネットで確認することができた。外で充電が終わったバッテリーを設定したACC値で評価すると、パラメーターの一つにBadの表示が出た。ACCは自動車の起動時に必要な電流に対する指標であり、Nexagの稼働には12.4Vの表示があるのだから問題が無いのではないかと私は伝えた。とりあえず、再起動を試みよう。必要な工具をザックに入れ、バッテリーの運搬はスリエさんに託す。観測施設へのアプローチは前日の戻り道、スンダールさんの苗畑ハウスを通る。

あっさり起動

Sankhu-1

Sankhuの朝は4時過ぎ、鶏の鳴声、犬の吠え声の合掌で始まる。指揮者は不明。そして辺りが明るくなった7時頃にはルクラ方面へと向かう航空機音が加わる。スリエさん宅近くのベニヤ板工場の機械も動き出す。10時まで眠る予定は、8時に変更、気だるい体を屋上に運ぶ途中、サンティ婦人と朝の挨拶、ルーフトップの階段では先客のスサさん(スリエさんの長女)の黒い瞳に吸い込まれる。O先生とは何度も会っており、英語の会話が弾む。0先生に景色を紹介してもらい、スサさんからも説明を受けた。どの風景が好きかと尋ねると、ヴァジュラヨウギン寺院の風景だと言う。周辺には3つの古い寺院があり、最近はチベット密教の寺院も増えている。何故なのかは、チベットが置かれている環境を考えると想像はできる。

 一通りの地理的情報をまだ目覚めぬ頭に入れていたら、サンティ婦人とスサさんが朝食を運んできてくれた。プライスに座り、欄干基礎にミルクティーとトースト、茹で卵のプレートを置く。緑と朝の空気を吸いながら、一時を過ごす。

 以前は、水田と古い集落だけのSankhuの景色は10年前にNepal国を襲った地震により壊滅的な被害を被った。古い水路による水環境も失われてしまった。その後の復興により新しいコンクリートとレンガの家が立ち並び、その多くは複層構造で、真新しい貯水タンクが目立つ。今回の目的である気象ステーションは、スリエさんの家からも近く、使用中断により、雑草に埋もれつつあった。

 食事後、スリエ氏がステーションから外したバッテリーを確認すると、12.3Vの電圧と充電器には80%の充電を表示した。使用できる印象を持った。O先生は、バッテリーチェッカーにパラメーターとして入力するCCA値が気になり、バッテリーメーカーの代理店を訪問すると言う。バッテリーをNexagのE-DISP・Zに直結すると、何故か表示が出ない。札幌で事前に実施iした状態と異なるのだ。Simが入っていないためなのか?、そのような話は聞かなかったし、いきなりの予想外に焦る。

 しばらくすると、新しいSIMをバイクに乗って、下の集落で調達してきてくれたスリエ氏が戻って来て、スサさんとともにE-DISP・ZとO先生と私のスマホに設定してくれた。E-DIPのSIMはこれまで使っていた物と同じため、E-DISP・Zの通信設定(SDカード)を修正する必要は無かった。SIMを入れた状態で再度、祈る気持ちでバッテリーに接続するが、前回と同様に起動しない。うーん、困った。バッテリー、配線を再度確認し、e-DISPを手にすると、左にあるスライド・スイッチが下がっているではないか。スイッチを上に上げると、当然のように起動した。SIMを入れてあるので、アンテナと接続しなくとも通信マークが表示されると思ったのだが、画面には表示されなかった。設定画面を表示することを既に忘れていた。

 O先生にe-DISPの起動を伝え、観測装置を確認することとした。スリエ氏から鉄檻の鍵を借り、あぜ道を辿り、野犬防護の波トタン板を外し、隣家から聞こえる音源に対し大きな声で「Namaste!」、出てきた小柄な男性へ、身振りでここを通りたいと伝える。小柄な男性は困った表情で、家の中に声を掛ける。出てきた体格の良い男性に、指差しで「Weather Station」と言うと、分かったよ、と言ってくれた気がしたので、民家横の小道を進む。水田と畑が接し、あぜ道には大豆、かぼちゃが植えてある。傷つけないように、そして草で滑らないように進み、観測装置にたどり着いた。

 装置は、枯れ草に覆われており、借りてきた鎌で、周辺の草を刈る。装置はメンテナンスがなされていないので、太陽光パネルを含め汚れが酷い。鍵を外し、鉄柵の中の草を刈り、必要な作業を考える。まずは掃除だな。O先生は、通りやすいと思われる仲間のスンダールさんの温室方向の道を探る。スンダールの弟君を見つけ、再会の会話となった。空のバッテリーケース(クーラーボックス)に残された配線を外し、泥水をケースから排除する。クーラーボックスを持ち、スンダールさんの温室横を通り、車道からスリエさんの家へ戻った。

 バッテリーは明日まで充電することとした。明日は、O先生は、CCA値を確認するためエクサイドの代理店へ行き、私は観測装置の清掃をすることとしたが、代理店が分かるならば、電話をしてみることを提案した。スリエさんにもそのことを伝え、今日の作業を終えた。

 昼に頂いたダル・バート・タルカリ(DBT)は腹持ちが良い。部屋で明日以降の対応をO先生と相談していると、停電となり、Wifiも使えなくなる。スリエ宅の階段だけはバッテリー給電によるLEDライトが灯る。手持ちのソーラーランタンを灯し、作戦会議を続けた。そうしていると、サンディ婦人から夕食の知らせ、家族の食卓もあるので、夕餉の場は3Fの応接間(スリエ夫妻の仮寝室)となった。LEDライトの淡い光、外につながる暗い影、近隣から聞こえる夕餉の家族の会話、昭和30年代の日本の雰囲気、カトマンズ市内では味わえない心地よい空間は、少量のロキシーを楽しませてくれる。スリエ氏とO先生は、いろいろな人の近況を主に会話が弾む。時折、関心のある話題には参加させてもらった。明日は、どこまで作業が進むのだろうか。ここはNEPAL、ビスタリ、ビスタリ。停電は、しばらくすると復旧した。

横浜からKathmandu

 横浜能美台のN村宅を7:20に出る。昨晩、今朝とすっかり主の手によるご飯を頂いた。学生時代からの手際の良さは、更に進化していた。海外赴任先で納豆を作った話には驚いた。10月からのチリ、アルゼンチンのバイク・ツアーでは、パスタマシンでラーメンを作るという。訪問した理由の一つに、彼がMeme Pokhariのツアーを見つけてくれたことの礼を言いたかったことがある。それと、・・・長くなるので、止めておこう。

 奥様の遺影に挨拶し、百日紅の咲く玄関門を出る。Google Mapsだよりに幹線道と合流し、既に暑くなってきた舗装道を京急駅へと進む。能美台駅から、羽田空港まで、京急1本で行ける。所用時間も40分程度か。第3ターミナル2Fで前日に預けたスーツケースを回収し、3FのTai-airカウンターへ進む。エコノミー列には団体が先客として並んでおり、カウンターにたどり着くまで小一時間を要した。心配だった荷物は25.4kg、超過料金は不要だった。手荷物の1.5kgは良いとして、バックパックはトレッキング・シューズをいれたので、7.0kgを1.0kg程超えているはずだ。計量で言われたら靴を履き替えようと考えていたが、これらの計量は幸い無かった。

 空路は、沖縄、台湾東部、東シナ海からベトナム、ラオス、そしてタイ国際空港に定刻に着陸した。隣席の団体客の方は、60名でTaiLandを3泊で観光するらしい。ランチにワインとbeerを楽しそうに飲んでいた。団体旅行、既に死語と思っていたのだが、まだ残っていた。トランジットでO先生と合流し、6時間後の接続便を待つ。巨大な空港ターミナルには、テーマパークのように店が並び、多くの旅客が行き交う。搭乗前にチキンヌードルで腹を満たし、乗客と手荷物で既に満載となった客室内にバックパックの置き場は、前席の下しか無かった。隣席の若い先客に、Namasteと声をかけて着席すると、「日本人ですか?」と問われる。ネパーリーからの流暢な日本語に驚いた。話を聞くと、5年ぶりの帰国だと言う。学生で休暇がなく、その後のコロナ、就職後もなかなか休みが取れなかったそうだ。出身はKathmanduから西へバスで12時間、今日は空港近くの友人宅に泊まり、明日、久々の故郷へ帰る。海外での就業が盛んな国だが、20代前半で頼もしい若者だ。日本の若者と同じように、スマホは手放せないアイテムだし、それがあって孤独にならずに済んだのだろうKathmandu着陸後、握手をして、短い出会いが終わった。45歳までは日本に居たいと言う。文化交流?ビザには期限が無いらしく、家族も簡単に日本に呼べると言う。たくましい限りだった。

 到着カウンターで、3ヶ月の観光ビザに125$を払い、歩が悪い両替所は担当者が外の方が良いと親切にもアドバイスしてくれる。入国審査では以前の入国カードも写真も不要となり、係官から、ネパールは初めてかと聞かれたので、2度目だと応えた。係官の表情が変わり、今年2度目かと聞いてくる。ネパールの年間滞在限度は150日のはずだから、それを気にしたのだろう。今年は初めてだと返答し、カメラ撮影で審査は終了、無事3ヶ月のビザを得ることができた。

 荷物を受取り、下へ降りると、スリエさんが待っていてくれた。0先生より髭面の私を見つけたようで、札幌からのWhatsappの画像で印象を持ってくれたようだ。スリエさんが手配した車に重いトランクと乗り込み、深夜のKathmandu市内から、Sankhuへの20分程のドライブをした。小雨が降ってきたせいもあり、深夜の空気が気持ちよかった。Kathmanduの酷い大気汚染を味合わずに済んだ。

 Sankhuの中心通りを外れ、スリエ宅に到着、スリエ夫妻の寝室を厚かましくも利用させてもらう。サンティ婦人がミルクティーを入れてくれた。荷物を少し整理し、長かった一日は翌日の2:30(日本時間5:45)に布団の沈んだ。

南平岸から横浜

 旅が始まった。今回の構想は、もうずいぶん昔から考えてはいた。最初の仕事をしていた頃、いずれ時間ができればの程度ではあったが、その後の大激変により、それどころでは無くなってしまった。

 諦めた構想が、再び芽吹き出したのは、秀岳荘で見つけた「売ります Feathercraft K1」の張り紙だった。40代の頃、海を漕ぐことを知り、一升瓶1本で譲り受けたKayakも大激変後にもう漕ぐことは無いだろうと手放していた。

 大激変から10年が経過し、K1を譲ってくれた元山岳ガイドから長谷の名前を聞いた。私のK1は、「ライオン丸」となった。そして、2023年3月の知床、ショウジ川のビバークサイトで仲間を慰霊した後、長谷が残っていると意識した。

 そして2024年、所属するNPOの総会でNEPAL国での作業計画が承認され、思ひ(欲)が伝わったのか、作業員として現地へ乗り込まさせてもらうことになった。

 これらの関連情報は、Head Pageにリンクがある。

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