Sankhu-22

 9月30日、4時半頃に目が覚める。一度目が覚めると、なかなか寝付けない。窓外の空上にはオリオン座が輝いていた。Macを開け、NexagのWeb dataにアクセスすると、dataは送信が続いており、交換した部品は機能しているようだった。ただ、ECメーターに付属して表示される電圧が低下している。3時間で0.04V程低下しているので、12Vを割り込みそうだった。

 そうしている内にO先生も起き出し、二人でぞれぞれ作業する。先程まで晴れていた空はいつの間にか曇りとなる。山肌にベッタリと雲が張り付いている。放射冷却による雲であるならば、陽が出れば消えるだろうが、バッテリーのことを考えると不安にある。電源コントローラーのモニターランプを確認したかったが、まだ薄暗い。

 7時を過ぎた頃、まだ空は雲に覆われていたが、薄い部分から青空らしきものが挑めた。今日は多分晴れるだろう。屋上から定点写真を取っていると、O先生が先に観測装置まで行ってしまった。スリエさんの長靴を借り、その後を追う。観測装置の外観は朝露で濡れている。本体を開けると、ソーラー、バッテリーともにランプは点灯しており、ひとまず安心した。バッテリーチェカーで確かめると、バッテリーは12.2Vを示していた。近所の子どもたちが寄ってくるが、これは危ないのだとO先生が英語が分かる年長者に伝える。

 炒めた野菜とナンに甘い揚げ菓子の朝食をしながら、スリエさんと残りの滞在時に、彼の計画をさらに詳しく聞くこととする。

 問題分析

 アルカリ水は次亜塩素酸ナトリウム、May be

 DBTの夕食

 明日はヨマリをつくる、チャングナラヤムへ

Sankhu-21

 9月29日、昨日の天気予報は雨、しかし雨音は聞こえない。前夜、スリエさんは明朝の散歩は雨なので無しと宣言されていた。いつもの混成合唱曲「バクタプール」に目が覚め、窓から空を見ると、薄曇りのようだった。

 O先生は、Nepalでの滞在を延長し、多分これが最後のSankhuでの活動となると言われる。昨夜、残りの日程での作業を話し合ったが、10月3日ごろから始まるこの国最大の祝典ダサインの影響で、我々の活動も制限される可能性がある。スリエさんも帰国者を含めた中間とポカラ近郊のガンドゥルンへ10月7〜9日の予定で行く。Nexagパーツの到着も目処がつかない。昨夜、Shankharapurの副市長の話から、今後NPOがSankhuでの活動を継続するなら、何らかの手立てが必要では無いかと考えていた。

 次第に明るくなり、空の感じから長雨は終わったようだった。O先生にNPOとShankharapur市との協定締結を提案する。O先生も札幌からの情報活動を含め、興味を持たれ、当方もノーtに協定の概要を示した。モーニング・ティーを飲みながら、さらに内容について話をした。朝食を運んできたスリエさんにO先生は、早速、協定について提案された。私からも、スリエさんとNPOとの関係は変わらないと伝えた。

 朝食後、昨日概成したMeeting内容を修正する。停電によりZoomの録画機能が使えず、iPoneの録音を聞き直しながら、メモによる書き起こしを修正する。

 スリエさんは今日が母親が亡くなって9年目の追悼がある。親戚がラメッシュさんの家に集まる。彼が出かけてからしばらくして、小包を抱えて帰ってきた。部品が届いた。スリエさんと握手して喜ぶ。梱包を解くと、代替部品が出てきた。海外送品も昔とは環境が変わってきている。ここネパールもその流れに乗っている。海外勤務者とやり取りすることもあるのだろう。休日を理由に遅れた日本国内の日数を除けば、1周間程度で着くことになる。さて、作業だ。もう一度、DDLのMさんが送ってくれた作業書を読み返すと言うか、見返す。草臥れた脳細胞にインプットし、工具などを背負って、観測機器へ向かう。スンダールさんの苗畑の作業者と久々にナマステ。観測機器の周りは既に雑草が伸び、ここの太陽エネルギー量を感じる。本体Boxの蓋を開け、外す配線を確認する。配線の色が故障部品と代替部品が同じなので、ただ接続し直せば良い。電源コントローラーとの接続は小さなマイナスドライバーが必要だが、持ってこなかった。折りたたみペンチの付属マイナスドライバーは大きくて、このネジは回せない。工具箱にあった接続端子の平金をペンチで回して代用した。作業は10分程度で完了、e-DISP前面スイッチを押しながら、本体スイッチをON、e-DISPに表示が出て、しばらくするとWeb Cameraの画像が表示された。e-DISPから指を離し、パネルをタッチすれば、子機からの情報が表示されている。子機の送信ランプも点滅しており、問題はなさそうだ。残しておいたペットボトルの水を雨量計に乱暴に注ぐと、子機のランプも点滅した。Boxの蓋を閉め、鉄檻の鍵をして作業完了。O先生は雑草を全て除去された。後は、受信を確認するだけだ。

 スリエさん宅に戻り、正時を過ぎた頃にサーバーDataにアクセスする。Dataが表示されているのを確認、ようやく復帰した。

 スリエさんから昼食時にはサンティさんが戻ると聞いていたので、それまでの時間を数日前にサンプリングした土のpH測定をO先生が行う。乾燥させた土壌にペットボトルの水を注ぎ浸透させたのは前日だが、上澄みには程遠い濁度、コーヒーフィルターを使って濾すが、効果なし。ECメーターを検定液でキャリブレーションし、3箇所のpHを計測する。pH6付近となり、象皮病をふくめPotato栽培には問題がなさそうだった。もっとも水田利用していた土壌なので、この値は妥当だと思われた。ペットボトルの水はpH7.1、これも正常だろう。水道水がpH9.5?、検定液によるダブルチェックも検定限外をアルカリ側で超えている。何故だろう、地質の影響だろうか?それにしても水素イオン濃度が低すぎる。我が家の浄水器以上の値だ。この水を飲み続けることは、何を意味するのだろう。

夕方の街中散歩

ラメッシュ宅の追悼夕食会

Sankhu-20

 9月28日、目が覚めると、雨音がする。いつもの鶏の鳴き声(数日前の散歩時、私がスリエさんに鶏は、「バクタプール」と鳴いていると言うと、大笑いしてくれた。)、犬の吠え声が聞こえない。昨日からの雨は止む気配も無く、天気予報も月曜日まで雨が続くようだ。激しい雨では無いが、これだけ長時間続くと、災害の懸念が出てくる。

 スリエさんは、昨日からロータリークラブの会合でナガールコットに出かけたままで、10時までは戻ると言われていた。薄緑色のハーブティーをサンティさんが持ってきてくれた。近くの用水路の水も溢れそうで、数日前に播種したpotato畑も畝頭まで湛水している。朝食は芋餅に似た物とウィンナーソーセージ、ゆで卵とチャイである。この雨は予定しているmeetingにどんな影響を与えるだろうか。ゲストは来てくれるだろうか、通訳はKathmanduから動けるだろうか、昨日は無かった停電は大丈夫だろうか。ランチにはコロッケを出さなければならない。雨が降り続くので、屋上からの定点的な撮影もできない。準備まで時間があるので、O先生と外に出てみる。サンティさんから長靴を借り、合羽の上下を着る。防水カメラを手に、辺りの様子を見る。

Meeting

夕方散歩

ヌードルの晩ごはん

今後の活動

Sankhu-19

 9月27日 早朝から雨、5時に前日約束していたスリエさんとの散歩は中止となった。雨が日中降り続く。人通りもバイクの通行も少ない。周辺農地の作業は当然お休み。南からの労働者もこの寒い一日をどうやって過ごしてるのだろう。

 前日の札幌F氏とのZoom会議で、F氏が問題分析にこだわるものだから、スリエさんとの話から整理した4つの課題毎に、この部屋に貼ったポスト・イットの記載を見ながら、図形ソフトに再編集、HTML化してWebに貼り付ける。HTMLで貼り付けているため、翻訳機能が効かない。O先生の要望もあり、英語版の下にネパール語版を配置した。

コロッケ試作

デライ・ミトチャ

Sankhu-18

 9月26日、今日は前日から予定していた土壌サンプリングを行う。

上流域圃場

ディペンドラさんの圃場

ラムカジさんの圃場

ティーブレイク

 コロッケ食材の調達は、昼食後にスリエさんに同行してもらった。スリエさんが使っている店を行脚する。スリエさんの家にも食材はあるが、この作業の目的にはコロッケの値段を考えることがあると言って、全ての食材を購入することとした。余る食材もあるだろうが、サンティさんに使ってもらえれば良い。

 土曜日のゲストにもコロッケを食べてもらうため、下準備は今日の午後に行い、明日の夕食にはスリエさん家族に食べてもらうことにした。玉ねぎをバターで炒め、メークイーンに似た芋を圧力鍋で皮ごと茹でる。そうしている内に、4時からのZoom会議時間が近くなった。前日に1ヶ月の有料設定にしたので、会議時間は10時間連続が可能だが、今回は1時間あれば良いだろう。土曜日のMeetingはO先生とも話てきたのでお任せし、会議室をオープンにした後、コロッケづくりに3Fのキッチンに戻る。フライパンの玉ねぎは余熱で茶色になっていた。こちらの玉ねぎは小さく、硬い。炒めてもなかなか旨味が出ず、辛味が残る。再度フライパンを温め、ミンチした豚肉を投入する。フライパン内で塩、胡椒をミンチ肉に混ぜてから、よく火を通す。脂身が多いのと火力が弱いので、ややベットリとする。茹で上がったジャガイモを取り出し、Zoom会議に合わせ2Fに降り、皮をむきながらO先生とF氏のやり取りを聞く。スリエさんが戻ってきたので、入ってもらい、大学から戻ったスサさんにもチャットを試してもらう。ドア外に居たサンティさんにも登場してもらう。遠隔地での会話がこんなに簡単に出来てしまうことに改めて驚く。

 Zoom会議は皆に任せ、コロッケづくりに勤しむ。温かい内にジャガイモを木製のマッシャーで潰し、フライパンにとろみを期待し小麦粉少々、購入したソイソースは醤油では無く、所謂ソースだったが、これも少々、ミルク少々、袋ごと買った砂糖は入れるのを忘れてしまった。そして、最後に潰したポテトを混ぜ込んだ。冷えたら、ビニールに入れ、冷蔵庫であすまで保管だ。なんで私はNepalでコロッケを作っているのだろう。でもこんなことは今回こなければ出来なかったことでもある。2Fに戻れば、Zoom会議も終わったところだった。

Sankhu-17

 9月25日 起床は6時30分、夜中に雨音を感じた。空は薄曇り、地面は濡れていない。バジルティーを飲んでいると、既に近くのベニヤ板工場が稼働していることに気づく。

 今日は、今週土曜日のミーティングに向けて、スリエさんを交えてこちらの方針を確認しなければならない。O先生を毎度のように急かして、ゲスト三人へのNPOからのメッセージをスリエさんのWhatsappから送ってもらう。前回と異なり、NPO側からの説明は無いので、Sankkhuの農業への将来像を語ってもらい、それについて少しディスカッションを行う。日本語の通訳をKathmanduから呼ぶので、発言もディスカッションの時間も実質半分となる。

 O先生は、これまでのスリエさんとのロングインタビューを整理されている。当方もその整理をしているのだが、スリエさんの最終レポートは、どちらかといえば解決策の提案に近い。こちらとしては、その前段として、課題を整理しなければならない。スリエさんとは課題の共通認識を持つことで、正しい解決策を検討しようとこれまで話していたのだが、問題への対応方法が異なるのかもしれない。

 問題は、目標があってはじめて問題となる。これは当方の持論でもある。そして、現状が定まらないと目標へのベクトルが描けない。偉そうなことを言うようになったものだ。それにしても、SankhuのPotato生産の数々の問題は、どう関連しているのだろうか。ポストイットを持ってきていることを思い出し、スーツケースの中を漁る。3色のポストイットを持ってきたということは、想定内の作業なのかもしれない。借間に敷いた布団をたたみ、壁を広く使えるようにする。スリエさんの主張的な解決策をまず書き込み、壁に貼る。4分野に分けているので、分野毎に縦にならべ、それを元に事実と課題を貼り付けてゆく。英語表記にしているので、お互いの議論のベースになるだろう。

 午前中にPotetoをテーマとした課題整理を終えた。DBTの昼食後、土曜日のミーティングにも関係するSankhuの将来像とそれに向けた課題についても、別の壁を使ってポストイットを貼ってみた。これまで、スリエさんに案内してもらった場所や祝祭、用水路沿いの道、農作業、人々の暮らしから、Sankhuの将来像を勝手に構想する。本当は地元の人たちが考えなければならないことだが、人口増加、民族、カーストもあり、将来を議論する場が設定されているわけではない。行政の姿も良くわからない。それでも、スリエさんと議論ができれば、何かの役には立つのではないかと思っている。

 午後のティータイムにお茶を運んできたスリエさんに壁のポストイットを見てもらう。これはあくまでもThinking Gameで、正解とは限らない。スリエさんの見解も書いて、貼って欲しいとお願いした。また、スリエさんの解決策であるグループによる展示圃場を展開することに対しては、それも必要だが、結局市場はインドからの輸入に支配されているのであれば、この小さなSankkhuは、インドとは別の市場を作らなければならないのではと言った話をした。

 スリエさんも頷いてくれたが、まだお互いが完全に理解した訳では無いようだ。夕食前に0先生とそのことを話していると、O先生から加工販売の例として、コロッケを作ろうという提案があった。Sankhuのジャガイモだけで作るSankhuコロッケ、地元で消費し、評判が上がれば市場としての広がりは可能だろう。Sankhuに加工場を設置して、Kathmandu市場へ販売することもできる。ならば、コロッケと言う物を食べ物をスリエさんに食べてもらおうという事になった。

 コロッケ計画は、まず食材確保からである。作り方は、Youtubeで予習し、材料もリスト化した。Sankhuで揃えられるかが問題だが。

Sankhu-16

 9月24日 前日夜、亡くなった親族の追悼から帰ってきたスリエさんが朝の散歩に誘ってくれた。O先生は疲れているのに、往くと言う。出発は5時、部屋に迎えに来ると言った。

 いつも4時になると、何処かで始まるチベッタンのお祈りが聞こえてくる。天気が気になり窓から外を覗くと、星は見えず、雲が覆っているようだ。ぐっすり眠るO先生を残して、スリエさんと往こうとしたら、O先生が起きてこられた。三人でまだ暗い外へ出る。半月が頭上にあり、木星が雲の隙間に見えた。スリエさんの朝の巡回路、ルーチンは5年ほど前かららしい。足元暗く、円礫の道では躓きそうになる。O先生は頭も体も眠っているらしく、フラフラしながら歩く。サルナディ川の橋を渡り、モノハラ川は何処で始まるのか聞くと、さらに下流だとスリエさんは言う。うーん、ようわからん。

 あたりが明るくなってきたが青空は見えない。住家を抜けると道路の勾配が増し、棚田の中を抜ける。この時間帯に散歩するのは、日中のバイクや車の通行に妨げられることが無いからだとスリエさんは言った。往来が少しずつ増えてくる。時折、スリエさんの友人ともすれ違い、短い挨拶が交わされる。こちらは、ナマステ。ナガールコットに続く道に合流すると、女性グループも増えてくる、皆、散歩を楽しんでいるようだ。栄養状態の改善によるためか、彼らのお腹はやや脂肪が多い。そのためのウォーキングをだれかが推奨したのかもしれない。スリエPaPaの家への分岐を過ぎ、道は緩やかに下る。スクールバスが既に生徒を乗せて走る。 

 サルナディ川を渡り、寺院横の食堂でチャイをのみながら休むととともに、スリエさんは馴染み客たちと情報交換。どうやらこの店は、5時から19時まで営業しているようだ。今まで気づかなかったが天井近くには燕の巣があり、住民達は客の姿に警戒したか、店奥の別室にある棚に集まっている。燕たちは、通年居ると言う。主人らしき男性は、熱いオイルに穴の空いた容器から生地を落とし、ドーナツづくりを始めた。すると、最初に出来たドーナツを長い橋で、道路に放り投げた。最初のドーナツは、神への捧げ物なのだそうだ。たむろする犬たちが食べるのかと思ったら、誰も寄ってこない。熱いのを嫌っているそうだ。

 街中には南方の人たちが何処からともなく現れ、稲刈り作業に向かう。彼らは6時から働くそうだ。日中は暑いから、少しでも体力を温存させるためなのだろう。幹線道路と合流し、スサンティが通う学校の前を通り、水路沿いのショートカットで登記役場の前へと出た。幹線道路からの分岐道に合流し、スリエさんとの朝の散歩は終了した。O先生は少々お疲れ、Bedに横となる。

 今日は、土曜日のミーティングに向けたメンバー設定と内容を整理しなければならない。朝食後にスリエさんと話て、メンバーは前々日に提案のあった副市長の他、女性農業者でJICA研修で札幌にも滞在したことのあるジュルムさん、若手農業者で先週も来てくれたディペンドラさんとなった。O先生に開催趣旨と発言内容を事前に伝えるため、メッセージの作成をお願いするが、なかなか書き上げられない。今回は通訳のジバンさんを交えるので、多くの内容にふれることはできない。

 スリエ宅の近くでは、4日前に稲刈り、脱穀、3日前に荒起し、2日前に畝立てが行われ、今日は種芋が植え付けられるようだった。屋上からはその様子がよく観察できる。5人ほどの近所に住むタマン族らしき女性と2人の男性が、作業を始める。男性が種芋を並べるが、その間隔は15cm程度であろうか。狭い。水田後作、肥料の投入は確認していないが、あまりにもの狭さに驚く。女性達は、畝の土を細かく砕き、種芋が並べ終わるのをおしゃべりしながら待つ。そして、種芋が並べ終わると、種芋を持ち上げ、種芋があった場所を少し掘り下げ、種芋を戻し、土をかける。この作業を続けた。

 スリエ宅の北側では稲刈りが始まった。足踏み脱穀機を二人が棒を通して担ぎ、その他15人程の鎌を手にした南からの一団は、畔に配列すると、それぞれが幾つかの株を刈り始める。100m以上離れているが、稲を刈り取る音が聞こえる。蚕が桑の葉を食べる音のように。作業の速度は早く、どんどん稲が刈り取られ、並べられてゆく。

 種芋植えと稲刈り、2つの作業を何度か屋上から撮影する。

ジュルムさんの家へ

Surajさん

北方面の雷

Sankhu-15

 9月23日、朝から雲一つ無い。雨期は終わったのだろうか。朝は気持ち良い気温も10時を過ぎれば強烈な日差しが辛くなりそうだ。O先生が気にされてたチャングナラヤム寺方向からのSankhu俯瞰写真を撮りに行くこととする。O先生には体力の消耗が予想されるので、情報整理に勤しんでもらう。

 撮影地点は明らかではないし、昔と道が違う。橋ができる前は、モノハラ川を歩いて渡ったとO先生が言う。Sankhuとスントールの街が俯瞰できて、現在は2つがつながった状況をご覧になりたいそうだ。Google Mapsを見ると、スリエさん宅からモノハラ川を渡る橋までは、幹線道路を通らず、田園の中を通って行けそうだった。あぜ道でズックは滑るので、トレッキングブーツを履く、日差しは広ツバ帽子で対策、飲料水ペットボトルは半分で足りるだろう。気持ちの良い朝、人の往来、どこかで燃やす薪が、昔のKathumandu Morningを思い出させる。道を一本川よりに取ってしまったが、住家の住民があっちだと指差す。ここでもナマステ。道は先々週になるだろうか、夕立の前哨雨から逃れるため急いだ道と繋がった。金持ちのチェットリー族が住む高級住宅街を進むと、異邦人を見つけた悪ガキが後ろから声を掛けてくる。面倒なので完全無視すると、最後は罵倒の言葉で終わったようだ。可愛げの無い子どもに興味は無い。ドイツ系ファンドが建てた病院をすぎると、道は段丘を下り、モノハラ川の広い河原に広がる雨よけトマトハウスの間を進む。モノハラ川の橋を渡り、チャングナラヤム寺へと向かう真新しい砂利道を登る。

 道はどんどん登るのだが、肝心の撮影ポイントから離れてしまう。途中分岐があったので、上流方向へと向かう道を左折した。道沿いに電柱も伸びているし、上から車も来たので、ゆきどまりでは無いだろう。駄目なら引き返せばよいだけだ。道は細くなるが、ところどころに人家もある。樹林越しにSankhuとスントールが視える場所で撮影する。既に陽は高く、撮影には良い条件では無い。

 道はさらに高度を上げて行く。モノハラ川の下流が見通せるようになると、Sankhuはさらに霞んでゆく。側に居た婦人にチャングナラヤム寺はこの先だと言われ、帰り道を考える。往路引き返すのも芸が無いので、チャングナラヤムからモノハラ川の橋を目指すこととする。Mapにはそのような道があった。見通しの良い高台を通り、バクタプール方面の平場が見えた。そして、カトマンズ盆地を見通せる道に出た。市内はスモッグに覆われ、外縁の山々がかすかに見ることができる。あの汚れた空気の下で、多くの暮らしが営まれている。それに比べ、Sankhuの空気はまだ汚れていない。

 チャングナラヤム寺を間近に見ながら、モノハラ川へ下る道をMapで確認する。砂利道は拡幅工事が行われている。道路の締固めのためか散水車までお出ましだ。下っていくと小さな集落があったので、そちらに導かれるように入っていくと、子どもたちが珍しそうに眺める。ナマステで挨拶し、かわいいナマステが返ってくる。Mapの導きと進行方向が異なるので、引き返すと、男の子がどこへ往くと聞いてくる。モノハラ川だと言うと、怪訝な顔、多分使われていない呼称なのだろう。Sankhuと言い、ここは通れるかと聞くと、大丈夫だと頷く。民家裏の小道を辿り、Mapの示す道に戻った。道は次第に険しく、荒れてくる。車は通れなくなって、しばらく経つのかもしれない。人が歩くには問題はない。

 高度を下げ、分岐を確かめながら歩く。モノハラ川の河原が近くなると、右手に粗末な家が見え、子供の声がする。母親らしき女性が、洗い物をしている横をナマステと声を掛ける。静かなナマステが返ってきた。家の前を通ると、四人の子どもが居て、その内の一人が可愛いナマステを投げかける。こちらも可愛いくおっさんのナマステを返す。ジャージの制服を来て椅子に座り、身支度をする少女が、「どこへ往くの」と尋ねる。車の通らない道だし、一人歩く他所者に興味を持ったのだろう。「Sankhuの街だよ」と言うと、「Sankhuの何処」と尋問は続く。うまく説明ができなかったが、Sankhuの街とサルナディ寺の真ん中あたりと言った。すると、彼女は私の学校はサルナディ寺の近くだから、一緒に往こうと言う。スクールバスの単語を聞いたので、「私もスクールバスに乗れるのか?」とふざけて言うと、少し困ったような顔をしつつも、身支度を終えると、さあ往こうと言った。

 帰りの道に広い車道を選んでいれば、こんな出会いも無かっただろうに、一人でも昼間は安全に歩けるNepalならではかもしれない。マナステ前の顔は怖い人も多いのだが、ナマステ以降は印象が変わってしまう。道は二人が並んで歩くのは十分に広く、雨期にはどろどろの粘土質の表面は、ここ数日の好天ですっかり乾いている。あどけない少女と白髪のおっさんの奇妙なコンビは一本道を辿る。「どこから来たの」「日本だよ。知ってる?」「知ってるわ、私の知り合いのお姉さんは日本で暮らしているの」「あなたのお母さんはよく働くね」「そうよ、朝から晩まで働いているわ」「ご飯は食べたの」「朝は私がご飯を炊くの」「あなたが?」「そう私が、あたたはご飯食べたの」「まだだよ、ところで君は幾つなの」「12歳よ」とりとめも無い会話が続く。こちらが知っているネパール語も交えると、この変な他所者への関心は興味に変わった気がした。4人姉妹と弟が一人、あの家を見ると生活は苦しそうだ。「私は勉強して、学校へ行って看護師になるの、そして海外へ行きたい」「あなたが海外へ行ってしまうとお母さんは毎晩泣くことになるよ」父親は海外で働いているのだろうか。それならばもう少し豊かな生活ができそうなものだが。「お父さんは海外に居るの?」「お父さんは家に居るわ、毎日寝てばかり居るの」「病気、怪我しているの?」答えは無かった。その代わり、「お父さんは嫌い、お母さんは好きだけど・・・」

 一本道は河岸段丘の縁を通るので、時折崩れた部分を通らざるを得ない。雨期は大変だろう。通路は細くなるので、一人ずつが通らねばならないので、気まずい会話は一旦中断した。モノハラ川を渡る橋の手間で上りに通った車道と合流する。ここからまた二人で並んで話を始めた。「海外へ行ったとしても戻ってくるのでしょう。ネパールが嫌いなの」やはり答えが無い。私の質問は、少女の辛い現実を認識させているようだった。左手のスマホを見た少女は、「iPhoneなの」「そうだよ、でも古いタイプだよ」「友達は皆、携帯をもっているけど、私は持っていないの、家は貧乏だし」子どもには生まれる場所を選ぶことはできない。裕福な家に生まれれば、なに不自由なく過ごせる。欲しいものが手に入り、苦労は無い。貧しい家に生まれれば、小さいときから苦労は耐えない。皆、貧しければ思うことはないが、貧富の差が明らかになると差別が生まれ、卑下と嫉妬が芽生える。ネパールにはカースト制度が根強く残り、自由に職業を選んだり、カースト間の結婚ですら村八分の対象となる。「貧乏は悪いことではないよ、君にはまだまだ将来がある。私の未来はもう少ないが、それでも何かできないか、いつも考えている。」「そうね」なんとか少女を励ましたかったが、上手く伝えられない。段丘を上がり、ドイツ系の病院横を通ると、人通りが増え、バイクも交差するので、また二人の会話は途絶えた。少女の学校はサルナディ寺の近くならば、ここへ来た田園道を通れば近いと思い、その道を通ることを提案する。煩くて危ない幹線道を通らない道だ。いいよと少女は答える。田園道も細いので、また二人は黙ったまま歩き続けた。小さな橋をわたると、また並んで歩けるようになった。「何処のホテルに居るの」「ホテルでは無く、友達の友達の家だよ」「いつまで居るの」「多分あと2週間は居るよ」田園道から彼女が指差す先に学校があると言う。サルナディ寺とは方向が違うではないか。「あの青い壁が学校で、政府の学校よ」「サルナディ寺の近くでは無かったの、民間の学校では無いの」「近くよ、民間学校は高くて行けないわ」ネパールの学校制度は分からないが、勉強したい彼女にこれから進学は可能なのだろうか。スリエさんの家の前で、ここに居ることを伝えた。「土曜日に家に遊びに来ない」「土曜日は、日本との仕事があって行けないよ」「日本に帰ってしまうの」「いいや、インターネットを使った仕事だよ」せっかく提案してくれたのに、叶わなかった少女の顔は悲しそうだった。少女の家に行って何ができると言うのだろうか?あの場所であれば、異国人が通ることはまず無いし、誰もにことのような提案をするとは思いたくない。事情を知れば知るほど、なんとかしてあげたいとは思うが、そんな簡単な話ではない。それじゃねと二人のコンビは解消し、苦々しさだけが残った。

 O先生に帰還を伝え、背負ったまま一度も飲まなかったボトルの水は、生暖かくなっていたが、ようやく水分補給をする。しばらくすると、スリエさんが前日に計画したサルナディ川上流域へ誘ってくれる。汗をかいて脱いだ上着とズボンをもう一度付け、スリエさんのバイクに乗った。

 街中から水道施設、坂道、止まったバス、サルナディ川上流、分水嶺、ナガルコット方面へ、欧米人グループ、水源池は水源地へ、幹線道路壁の落書き、ヒマラヤ方面の厚い雲、荷運び、中年男のルピー、サルナディ川上流を眺める、建設中のチベッタン寺院、養老院?、悪路を引き返す、チャイ、坂道を下る、

 部屋に戻り、しばらくするとスリエさんが、いつもより遅くなった昼食を告げる。先に済ませたO先生を残し、3Fに上がり、スリエさんと食事する。サンティ婦人がいつものようにニコニコしながら世話をしてくれる。食事後、スリエさんに午前中に出会った少女の話をし、今日は少し悲しい思いをしたことを伝えた。スリエさんは名前を教えてくれと言う。道の途中で名前を書いてくれたので、後で伝えることにした。何もできない他所者が、一時の偽善者を装うことに抵抗を感じつつも。

Sankhu-14

 9月22日、昨日のMeetingを何とかやり切った安堵と疲れで、起床は、6時30分を過ぎていた。O先生もぐっすり休まれたようだ。

 今日は、昨日、スリエさんから貰った課題と対策のペーパーをNPOのメンバーと議論できるように整理することとした。また、地域の図書館を見せて欲しいとスリエさんに以前から頼んでいた訪問が可能となるようだった。時間は16時からだと言う。学習のための施設のようで、そのために学校授業後に開催されるらしい。

 洗濯もしなければならない。スサンティさんに了解をもらい、O先生の洗濯物と一緒に選択、なんとドラム式の全自動洗濯機である。ここはKathmanduなのだよね。洗濯機は1時間で洗い上げ、4Fのテラスに洗濯物を並べる。多分、1時間程度で乾くだろう。今日は、雨期の空気は去り、雲はすっかり無くなった。日差しが強く、日中の外出を躊躇させる。近くの水田では稲刈りが始まり、南地方の住民が労働者として一時移住して、厳しい労働にあたる。既に収穫された水田では、脱穀が始まった。足踏み式の脱穀機が勢いよく穂を弾き飛ばしている。この日から近くの風景を定点的に撮影することとする。

 16時を過ぎてから、スリエさんと図書館へ向かう。教育関係の本が多く、Sankhuの歴史は無いかもしれないとの話だったが、まずは見せてもらうこととする。スリエさんと歩くと、多くの知人との挨拶が耐えない。今も残るトールと呼ばれる自治のリーダーを以前彼が務めていたのだから、仕方がない。図書館はまだ空いていないので、近くの商店で立ち話をする。下校してくる生徒が通り過ぎ、暑さが凌いできたので、往来も多くなる。

 目指す図書館は、商店の二階にあり図書館と言うか図書室はトールの共有財産であるそうだ。事務の女性にどんな本があるかを尋ね、歴史関係の蔵書を確認するが、無いとの答えだった。書棚の本を見せてもらうが、学習関係の本が殆どで、驚いたのは金日成や統一教会本があったことだった。スリエさんからは、e-bookの構想があることを聞く。確かに出版本の世界は厳しく、Sankhuの歴史本なんて売れないだろう。O先生が所蔵する本やその他の情報は、Webで読めるようにするのが良いのだろう。2015年の地震で大きな損害を受けたこの街、古い写真や復興による変化も資料としてあるのだろうか。地域を知ることから始めなければならないと考えるのは、よそ者のおせっかいなのだろう。

 埃っぽい図書室を後に、屋上に上がる。沢山のアルミの鍋とコンロが一つ、スリエさんによると辻向いの音楽堂の楽士達が食事する場であるらしい。暮れなずむ街をしばし眺める。ほとんどの家の復興は最近らしいが、レンガや人手作業の街は、古い町並みとそう変わらない気もした。

 スリエさんがサルナディ寺まで往くかと聞くので、散歩がてらに歩く。旧道から幹線道へ出るところには、サルナディ寺に関連する門があった。サルナディ寺の祝祭時にこの門を神様が担がれて通るそうだ。夕暮れのサルナディ寺は静かな佇まい、楽士による演奏がかすかに聞こえる。1月の祭典は1ヶ月間続き、国内から多くの人が集まるという。1日に1万人、休日は10万人がKathmanduから日帰りで来るらしい。1月のサルナディ川での禊はさぞ寒かろう。

 サルナディ寺の戸を覗くと、真っ黒な像がこちらを睨んでいた。寺を出て、角の食堂でチャイを飲む。この店はスリエさんのお気に入りの店らしい。今回で3度目となる。すっかり暗くなった道を戻る。南の養鶏所から運んできた鶏糞堆肥をトラックはジャガイモ植え付けのために慌ただしく降ろしている。まだまだ労働作業が続く。

Sankhu-13

 9月21日 交感神経と副交感神経の交差の影響か、明け方に咳き込む。大事な日なのに、人前で咳き込んで入られない。今朝も咳止めを服用し、朝食後、しばらくすると落ち着いた。軽い気管支炎の終焉だ。

 私の懸念として、今後このNPOがどのようにSankhuと関わろうとしているのか、そしてスリエさん達は何を望まれているのか。O先生に問いただしていると、朝食を持ってきてくれたスリエさんとしばらくそんな話をしていたが、スリエさんはライオンズクラブの会合で9時半までには戻ると言われる。当方の懸念を正確に伝えることはできなかったが、スリエさんはこれまでの交流に沢山のメリットを貰ったと言ってくれた。O先生とスリエさんの関係には何の懸念もない。しかし、この二人の関係を永遠に続けることはできない。人には寿命がある。JICAの講師対応で席を借りたようなNPOを自分にそんなことを考える必要は無いのだろうが、スリエさんとこれまで暮らしていると、無力な自分と分不相応の対応を考えてしまう。

 ゲストに昼食を取ってもらうには、ルーを温め、ご飯を炊いておけば良い。Santhyさんに図を書いて、お願いする作業と完成時間を示す。後は任せる。ミーティングのために、占領部屋の机を3Fに運び、PCと繋ぐTV、カメラ、マイクをセットする。今回は通訳が居ないので、我々が話すことは、原稿をネパール語とし、画面で流す。スリエさんの気象観測と危険指数の離しはコンパクト化し、図をそえてある。但し、私にはネパール文字が分からないので、何処を説明しているか判断できない。しばらくすると、スリエさんが画面の上げ下げを指示してくれるようになり、なんとか初めての詳しい説明は終了した。

 その後、メンバーにSankhuの農業に関して語ってもらった。内容はスサさんが英語に翻訳し、NPOサイトのフォーラムに打ち込んでもらった。自分のPCでフォーラム記事を日本語で読み、内容をO先生に伝えた。ディペンドラさんのここの農業には未来が無いの言葉が心に残る。それに応える知恵も力も無いのだから。現状では面倒な作業だが、後数年経てば、もっと簡単になるのだろう。

 札幌ではOriさん、Fさんが参加してくれた。

 Meeing後、食卓で日本式カレーを楽しんでもらう。皆、美味しい美味しいと言ってくれた。料理と食事は世界共通語であることを再度感じた。

とりあえず、Meetingを乗り切ったことに安堵する。後片付けを済ませ、参加者の発言内容をNPOサイトに載せる作業を進める。あっと言う間に夕方となり、鈍った体を動かすため、サリナディ川まで散歩する。モンスーンの雲がまだ空を覆い、夕陽がカトマンズ方向に沈んでゆく。暗くなりかけた道の往来はまだまだ続いた。

Translate »