第1期(1945〜1960年)「外圧解体期」GHQが壊した地主制、食管が守った零細農
出発点の構造的特徴
日本農業の戦後出発点は、フランスとは根本的に異なる。フランスが「戦争で疲弊した農村」を国内政治主導で再建したのに対し、日本はGHQという占領権力による外圧改革として農業構造の転換を強制された。この違いが、以後80年にわたる日本農政の性格を決定した。
農地改革(1946〜50年)は、不在地主の農地を強制買収し小作農に解放する歴史的大転換だった。全国で約200万町歩が移転し、小作地率は終戦時の約46%から10%以下に激減した。自作農比率は急上昇し、農村の封建的支配構造は解体された。
しかしこの改革には決定的な欠陥が内在していた。外圧による改革であったため、農家自身の経営合理化意識が育たなかった。零細な自作農を大量に創出したことで、農業の産業としての効率化よりも「農家を守る」という政治的発想が固定化されたのである。
食管法と価格保証の罠
食料管理法(1942年制定)は戦後もそのまま継続された。米の国家管理・生産者米価の政府決定という仕組みは、農家に価格リスクを負わせない代わりに、市場からの信号を遮断した。生産者米価は農林省・大蔵省・農協・政治家が絡む交渉で決定される政治的価格となり、以後30年にわたって食管赤字を膨らませる構造的問題の種が蒔かれた。
農業協同組合法(1947年)の制定で全国に農協(JA)が設立された。農協は当初、農家の経営自立を支援する組織として期待されたが、次第に米の集荷・資材供給・金融の三位一体で農家を系列化する巨大組織へと変質していく。フランスの農業者組合(FNSEA)が農家の政治的代弁者として機能したのに対し、日本の農協は農家の経営合理化よりも組織維持を優先する体質を形成した。
北海道固有の展開:3部門の原型形成
北海道では、内地(本州)とは異なる特殊な条件のもとで農業の原型が形成された。
稲作については、寒冷地という制約が逆に品種改良の強い動機となった。北海道農業試験場を中心に寒冷地向け品種の育種が精力的に進められ、この時期の積み重ねが後の「きらら397」「ゆめぴりか」へと連なる品種改良の基盤となる。機械化も早い時期から進んだ。北海道の広大な圃場は手作業に限界があり、トラクター・田植機の導入が本州より先行した。
畑作については、十勝・網走地方を中心に小麦・ビート(砂糖大根)・豆類・でんぷん用馬鈴薯の輪作体系が形成された。これは北海道農業の最大の特徴であり、4〜5作物を数年周期で輪作することで土壌を維持しながら大規模経営を可能にする合理的な体系である。この時期に原型が作られた十勝輪作は、以後60年以上にわたって北海道畑作の根幹をなす。
酪農については、1950年代の根釧・天北地帯でのパイロットファーム事業が決定的な役割を果たした。国が草地を造成し乳牛を導入・貸し付けるこの事業は、何もない湿原地帯に酪農地帯を創出するための官製開拓であった。現在、日本の生乳生産量の55%以上を担う北海道酪農の基盤は、この時期の政策投資によって形成された。
残された構造的矛盾
第1期の終わりには、以後の農政を縛る構造的矛盾が固定化していた。零細自作農の政治的温存、食管制度による市場からの遮断、農協による農家の系列化という三つの要素が組み合わさり、農業の「産業化」を阻む強固な壁となった。フランスがこの時期にすでに農業の産業化・近代化を国家戦略として位置づけていたのとは、出発点から大きく異なる軌道を歩んでいた。