第4期(1986〜1998年)「外圧開国・模索期」ウルグアイラウンドが迫った転換、制度設計が追いつかなかった10年
国際化の波と農業自由化圧力
1980年代後半から、日本農業は急激な国際化の波に直面した。プラザ合意(1985年)による円高が農産物の相対的割高感を高め、日米貿易摩擦の文脈で農産物市場の開放要求が強まった。牛肉・オレンジの輸入自由化(1991年)は、農業保護の「聖域」が崩れ始めたことを象徴する出来事であった。
より根本的な転換点は、GATTウルグアイラウンドの農業交渉(1986〜93年)であった。農業補助金の削減・農産物の関税化・市場アクセスの拡大という三つの原則が合意され、日本農業は国際的なルールの枠内に組み込まれることとなった。
米については「関税化猶予」の特例措置として、ミニマムアクセス(最低輸入量の受け入れ)という形で1995年から部分開放が始まった。1999年には関税化に正式移行したが、778%という法外な関税率により実質的な輸入障壁は維持された。
農業構造改革の模索
この時期、農業の構造改革が真剣に議論されるようになった。農地流動化・認定農業者制度の萌芽・農業法人化の促進など、担い手に政策を集中する方向性が模索された。しかし具体的な制度設計には至らず、農業政策の実質は依然として価格支持・補助金依存の旧来の枠組みのなかに留まった。
フランスはこの時期、CAP改革(マクシャリー改革・1992年)によって価格支持から直接支払いへの移行を進め、農業の構造調整を加速させていた。農業者が市場と向き合いながら経営判断を行う体制へとCAP自体が変化していったのである。日本では同様の方向への転換が議論されながらも、農協・農林族議員の抵抗と農村票への依存から、具体化が先送りされ続けた。
北海道畑作:自由化圧力の直撃
北海道畑作への影響は深刻であった。ビート(砂糖)・でんぷん(馬鈴薯・コーンスターチ)・小麦のいずれも、国際競争力では輸入品に大きく劣る。価格差補給金制度によって農家収入は一定程度保護されていたが、補給金の原資となる関税収入が自由化交渉のなかで圧迫されるリスクが高まった。
十勝の農業法人化はこの時期から加速した。大規模化によるコスト削減が生き残りの条件となりつつあることを、先進的な農家は直感的に理解し始めた。しかし資本力の乏しい家族経営が大型農機への投資を続けることには限界があり、離農した農地の集積が大規模経営農家に集中していく構造が形成された。
北海道酪農:「規模なき安定」の終わり
加工原料乳保証価格制度のもとで一定の安定を保っていた北海道酪農は、この時期から本格的な規模拡大の局面に入った。乳業メーカーへの供給量を増やすことが経営改善の主要な手段となり、一戸あたりの飼養頭数が急速に増加した。
しかし規模拡大には莫大な投資が伴う。牛舎の建設・乳牛の導入・機械設備への投資を借入で賄う農家が増え、経営の財務リスクが高まった。乳価が安定している間は返済が可能だが、飼料費・エネルギーコストの上昇に対して乳価引き上げが遅れる構造的問題は、この時期にすでに内在していた。後の酪農危機の伏線は、この「借入で規模を拡大しながら乳価は行政的に制約される」という構造的矛盾のなかに蒔かれた。